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「君の名は。」の前前前世
言わずと知れた新海誠監督の第3作目の劇場公開作品。
「君の名は。」で大ブレイクした新海誠監督が監督・原作・脚本・絵コンテ、および演出までを手掛けています。
「君の名は。」が劇場公開作品第6作目なので、前作は5作目、前前作は4作目、前前前作は3作目の「秒速5センチメートル」ということになります。
写真かとみまごうばかりの美しい作画スタイルは「秒速」から「君の名」に継承されていることがわかります。
「秒速」でくりひろげられた新海誠ワールドについては、すでに語りつくされていますので、脚本的にどうかということを考えてみたいと思います。
ちゃんと仕組まれた構造
ストーリーの終わり方から考えるに、この話はバッドエンド、もしくはビターエンドだと言えます。
なかなか失えなくて、そのことで幸せになれなかった”失うべきもの”が、最後のシーンで”失われた”というとらえ方でも、ハッピーエンドとは言えません。
主人公はタカキです。タカキは自分と同じものを感じるという少女・アカリとの”運命的な恋愛”をへて、アカリを”運命の人”と認識します。しかしタカキとアカリは物理的な距離も遠く離れ、長い時間を別々に過ごします。その間にタカキは長く自分に思いを寄せてくれている同級生・カナエとともに長い時間を過ごしますが、タカキはカナエとの恋愛に終始受け身で積極的ではありません。その様子からカナエは自信を失ってしまい、告白する機会を逃してしまいます。タカキはやがて仕事に就き、リサという女性と3年間付き合っていましたが、タカキとの心の距離を縮めることができなかったと伝えて別れることに。タカキは自信の葛藤から仕事をやめ、悲しさとも憤りともいえるような抑えきれない感情を抱えて生きています。そして、運命の人との思い出の地である踏切で、タカキはもしかしたらアカリかもしれない人とすれ違う。自分が振り返れば、きっと彼女も振り返ってくれる。そう確信したタカキは思い切って振り返ってみますが、アカリはもうすでにそこにはいませんでした。
ログラインは、「運命の人と思えるような人との出会いと別れを体験した少年が、他の恋愛を経験しつつも運命の人への期待を失わずにいたが、運命の人は運命の人ではなかった話」で、テーマは「運命の人はいない」です。
ログラインから全体をみると、第1話の桜花抄が長い1幕になっていて、第2話のコスモナウトが2幕。第3話の秒速5センチメートルが第3幕といえるかもしれません。
3話の連作で1本の映画となっているので変則的なストーリーのようですが、第1話の”運命の人との恋愛”と第3話の”運命の人は運命の人じゃない”がちゃんと対応していて、物語的にはそれほどトリッキーではないことがわかります。要するにちゃんと仕組まれた構造です。ビターエンドにいたった時に「特別な意外性はないのにオチをみて無性に心がざわつく」という現象は、新海監督の狙い通りなのでしょう。
失うべきものを失う物語
子どものころの恋愛ごっこでも男は律儀にそのことを信じ続けていたりします。
よく、男性の恋愛は「名前を付けて保存」、女性の恋愛は「上書き保存」、などと表現されていますが、男女に関係なく人間は過去の出来事をきちんと”失う”ことで前に進むことができるのでしょう。
失うべきものをしかるべきときに失えなかった人生はせつない。
アカリは上手に失った。タカキは上手く失えずにいた。そのことがきっぱりと人生を分けてしまった。
たとえ一時はお互いに運命の人だと思い合ったとしても、それがいつまでも続くものではありません。時間にはそれほどいろいろなものを失わせる力があるのです。
私はタカキ派の人間なので、最後の展開には鬱気分になってしまいました。自分の過去の恋愛と重ねてしまうのですね。
美しすぎる映像と切なすぎる心情がシンクロして、観る人にいろんな気持ちを起こさせるとんでもない映画になっています。
「君の名は。」をご覧になっていて、まだ「秒速」をご覧になっていない方は、新海誠監督を半分も知っていないということになると思います。ぜひ、ご覧ください。