映画 インプット道場

ICHI(いち)

2019年6月27日

ICHI綾瀬はるか

設定からしてなかなかのやり口

綾瀬はるか主演の「ICHI」(いち)がよかったので、何がどうよかったか説明します。

本当は綾瀬はるかの”おっぱい”が見たかった、のではなく、「おっぱいバレー」が見たかったのですが、レンタルビデオ店ですべて貸し出し中となっていたため、私の中の優先順位2位だった「ICHI」を見ることにしました。

盲目でみすぼらしい服を着た綾瀬はるかという設定だけで、なんとなくエロい、ではなく、見たい指数が高いのです。

というのが素直な期待感ですが、実はこの直観的な期待こそが、ストーリーの全編に塗り込められたやるせない悲哀に繋がっていて、そのあたりが”なかなかのやり口だなぁ”と感じさせられました。

脚本は浅野妙子さん。1994年に『無言電話』で第7回フジテレビヤングシナリオ大賞の佳作を受賞後、『ラブジェネレーション』『神様、もう少しだけ』『大奥』『ラスト・フレンズ』など、数々の話題作を担当。2006年の朝ドラ『純情きらり』も執筆しているという、脚本コンクーラーにとってはあこがれの存在です。

なぜ賛否両論あるか

賛否両論ある映画ですが、私はこの作品から伝わる物悲しい情緒に心打たれて、本当に「ICHI」を選んでよかったと思いました。

映画の感想を人から聞く時にいつも感じるのは、その人にとっての期待と結果のギャップの塩梅が映画の評価を決定する重大な要素になっているということ。

この映画を見るにあたって、何を期待したか。それを聴くだけで、どんな裏切りを受けたかが想像できます。

そしてその裏切り具合では、酷評につながる場合もあるし、期待通りすぎて平凡な印象となったり、いい意味で期待を超えて絶賛に至る場合も。

「ICHI」については、「座頭一」というビッグネームが災いして、あの座頭一を期待させられ、大いに落胆した向きも多いのではと思います。

逆に座頭一を知らない世代の中には、勧善懲悪のスーパーヒロインが立ちまわる映倫PG12指定の殺陣によるド迫力アクションを期待した人も少なからずいることでしょう。

私のように、単純に綾瀬はるかを見たいというドスケベも当然いたはず。

ここに、この作品の評価が大きく割れている原因があるように思います。

落ちた女の再生の物語

ストーリーは、綾瀬はるか演じる「市」ともう一人の主人公である「十馬(とうま)」(大沢たかお)が出会うところから始まります。

透き通った色気と思わず見とれてしまいそうな美貌を持つ瞽女(ごぜ:盲目の女性旅芸人)が暴漢達に襲われている所に出くわした浪人の十馬は、瞽女を助けようと待ったをかける。

ところが大きな口を叩く割には震えて刀を抜くことができない十馬は、金で解決しようと小切手を差し出すも暴漢に奪われて、命まで狙われる状況に。

あわやとなったとたん、盲目の瞽女である市が杖に仕込んだ刀で暴漢達を一瞬で屠り去る。

それがなかなかの迫力なんです。

血しぶきやら腕やらがぶっ飛び、綾瀬はるかも血まみれ。あの座頭一を期待した人も、おおっと声がでたのではないでしょうか。

この後の展開について触れることは、ここではしません。

私がここで書きたいことはこの映画のあらすじではないからです。

仕込み刀で暴れまわり、暴漢をなぎ倒した市は、当然剣の達人である、というのは意図的に見る者を裏切るトラップです。

市は弱い。

美人で盲目のか細い女だからと油断したときには、容赦なく切り捨てるほどの実力と冷徹さは持ち合わせているが、この後登場する悪党の親玉には軽くあしらわれてしまう程度のレベルなのです。

それもそのはず、剣は盲目の父から教わり、ある年齢を境に独学で身に付けたもので、結局のところ剣の師匠である父にも及ばないままの腕前だからです。

つまり所詮はか弱い女。

みじめな生い立ちから人に対して心を閉ざし、命惜しまぬゆえの強さで近づくものぶった切って生きてきた、根っからの弱者だったのです。

だからこの話は勧善懲悪でもなければ、市は最強のスーパーヒロインでもない。

悲しくもアウトローに落ちてしまった一人の女の再生の物語なのです。

盲目に生まれたことを恨むしかないような不条理な出来事の連続。

永久に変わらないように思える自分に対する「人の目」。

盲目なのに美人であるが故の悲劇。

いつしか「私にかまわないで」が口癖となり、生き別れた父を捜すこと以外に生きる意味も感じられない。

市は弱い。

そのはかなさゆえに、また美しく、美しさゆえに心をかきむしられるような、せつなさを感じる。

守ってあげなくちゃ、と思ってしまうのは、男の身勝手なスケベ心からか。

いやむしろ、目の見えぬ美人に、たとえ一瞬でもスケベ心を抱いたことへの懺悔の念か。

三者三様のあらがいかた

物語中の大悪党「万鬼(ばんき)」(仲村獅童)も、不条理な「人の目」に苛まれ、道を踏み外した哀れな存在です。

ある道場の剣の達人で、戦争のない時代の剣の到達点の一つである剣術指南役に声が掛かるほどの実力者でありながら、顔面の右半分が直視できないほど醜く焼けただれており、そのことが原因で疎んじられやがて立場を失ってしまう。

顔が醜いということが原因で、正当な評価を得ることができないと悟った万鬼は、世間や人の目に対する恨みを増幅させて悪党に落ちていきます。

その恐怖の悪人面の底には、真っ当に生き、真っ当な評価を得ることへの羨望と執着がありました。

彼が市を見る目は、同じ苦しみを知る者への同情と悲しみに満ち、市に悪党として共に生きる道を提示します。

そして、もう一人の主人公、十馬も、実力がありながら、正当な評価を得れず、死に場所を求めて流浪する悲しき浪人でした。

彼の徹底的にまずい欠点は「剣の抜けない剣士」であること。

道場の跡取り息子でありながら、あるトラウマから剣が抜けなくなり、道場を継げなくなってしまう。

嫡子が跡取りになれない屈辱は筆舌に尽くしがたく、「人の目」も果てしなく冷たい。

市や万鬼と大きく違うのは、それでも真っ当に生きたいと願うゆえ、彼の生き様はアンバランスで、善人ぶっていても善にもなれず、かといって悪にもなれないところ。

クールな市にくらべると、あがけばあがくほどにみじめで不格好です。

しかし物語中の彼の役どころは大変に重要で、人の目におびえ死を見つめる市に対し、人の目を威嚇し死をも恐れぬ万鬼は悪の道を勧めるが、人の目を強く意識しながらもそれでも真っ当に生きたいと欲する十馬は、市をアウトローたらしめている「自身の悲哀におぼれた思想」を激しく揺さぶり、生きる本能を刺激するのです。

このポジションは真の主役と言って過言ではありません。

十馬を演じる大沢たかおは並々ならぬ演技力で、十馬の人間味と存在感を確かなものにしています。

逆に言えば大沢たかお無しには映画の完成度は地に落ちていたかもしれません。

カッコ悪い時はトコトンカッコ悪く、カッコイイシーンではきらめくようにカッコいい。

それでいてちゃんと一人の人物として整合性が保たれていて違和感がない。

ついに彼が剣を構えた時の震えるような感動は、トラウマを突き破った時の達成感ではなく、彼の立ち姿が発するカッコよさから来るのだと感じたぐらいです。

残酷で切ない

世間からはじきだされた3人が思い思いにたどった道は、知らず知らずに交錯し、やがて運命を決する決闘シーンへと繋がっていく。

うーん、せつない。

3人とも自分が悪いわけじゃないのに、真っ当な道からは外れちゃって、本来ならもっと違う人生だったはずなのに、という想いを胸の内に秘めながら、すねてみたり、あきらめてみたり、戦ってみたりするのです。

死なねばならぬほど悪い奴はいませんでした。

しかし、結末は残酷です。

なんだか胸が締め付けられるような話じゃありませんか。

彼らに、「確かにかわいそうだが、まぁがんばれや」としか言えない人は、きっとずっと真っ当に評価されて生きてきたんだろうなぁと羨ましく思っちゃうのです。

ワンミスですべてを失う現代に似ている

今、大人であろうと子供であろうと、みてくれや、生まれや育ちや、一度のミスがたたって時には真っ当に評価されず、時にはいじめを受けているようなら、あせらず、あきらめず、おこらず、くさらず、すねず、負けないで、生きていて欲しい。

「ICHI」はそんなことを教えてくれているような気がします。

残念だったのは、濡れ場がイマイチなのは仕方がないので置いとくとして、いわゆるちゃんとしたチャンバラがないことです。

「弱い市」だから成立している話なので、そこも素晴らしいのですが。

 

 

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