”強さ”は男子のあこがれ
格闘技が好きです。とっても原始的な欲求として、強くありたいからです。己を鍛錬して人より強くなることに、激しい憧れを感じます。
ただし、私の場合は憧れるだけで、自分自身を鍛錬したりはしませんでした。
自分の体を鍛えるよりも、格闘技を題材とした漫画や映画にのめり込むことで、憧れを昇華しようとしたのでしょう。
私にとってその世界の入門書となったのが「拳児」です。
映画で言えばジャッキーチェンやサモハンキンポーなどが入門の手引をしてくれました。
漫画を読んだり、映画を見ただけで、なんだか自分も強くなれそうな気がするのです。
そしてモノマネをやってみる。
やってみて、自分の限界を知る。
私だけではなく、拳児を片手に裡門頂肘(りもんちょうちゅう)の練習をひたすらやったことがある男子は結構いるのです。
格闘系漫画の”重心”
数ある格闘系漫画の中でも特定の一部分を圧倒的に愛好するタイプの私なのですが、私が好きな格闘漫画の中でも「拳児」はかなりの異色作です。
どの辺が変わっているかと言うと、ライバルとの闘争やその中で生まれる友情とか、成長する度に登場するさらなる強敵とか、悪者の手によってあってはならない理不尽な対決を迫られるとか、そういったありがちな要素はちゃんと盛り込まれているのにもかかわらず、実質的にはぜんぜんそこに重きをおいていないという部分です。
では何に重きを置いているか。
それはつまり、技とその鍛錬法のリアルっぷりです。
この話は要するに「八極拳という質実剛健なある種の一撃必殺スタイルの拳法をマスターするために、少年がやたらと“訓練”する」という話なのです。
訓練を重ね上げるたびに少年は強くなり、強くなることで物語が進展する。同じようでも戦って勝利することで物語が進展するその他の格闘漫画とは明らかに重心が違うのです。
闘争心よりも謙虚さを
例えば、誰よりも強くなることを運命づけられ最強を証明する事で陸奥圓明流を終わらせるために戦い続けたり、一目ぼれした黒髪ロングの巨乳の女の子に振り向いてもらうためにキックボクシングを始めたはずが「弱い人嫌い」と言われ成り行きで格闘王を目指してみたり、地上最強の生物を父親に持った少年が親子喧嘩のために地球全土を巻き込む頂上バトルロイヤルを繰り広げたり、そんな「最強」に魅せられた漢たちのド派手な闘争心は「拳児」には描かれていません。
むしろ、拳法を学ぶ者が修めるべき思想・哲学を説き、闘争心よりもそれを戒める謙虚さを主人公に求めていくのです。
その一方で、初歩的な技術論から神技にいたるまでの解説は実に詳細で、まるで八極拳の啓蒙のために描かれた指導書のようにも感じられます。
また実在の高名な武術家やそういった人物をモデルとしたキャラクターが多数登場し、それらのエピソードもリアル感が深い。
この作品においては「本物っぽさ」が最大の魅力なのでしょう。極端に現実を逸脱しない全体として地味なタッチでありながら、リアルがゆえにムラムラと男の子心を刺激するのです。つまり「これなら自分も強くなれるかも」です。
必殺の拳法”八極拳”
また八極拳そのものの魅力も絶大です。
原作者の八極拳への知識の深さとあまりある愛がなければ、ここまで魅力的に八極拳を描く事はできないでしょう。
それだけに誇張された表現や手前味噌的な部分は否めませんが、それを差し引いても八極拳やその他の中国拳法への知的欲求がぐいぐいと高められてしまうのです。
どうせ鍛錬するなら、誰しも強い技を身につけたい。
本当は技が強いんじゃなくて人が強いはずなのですが、自分を鍛えるよりも先に「洗練された技」を求めちゃうのですね。
だから拳児を片手に描かれている通りの「修業」をしてみても一向に強くはなれません。
抜かなければ刀も飾りです。技が凄くても使えなければ意味はありません。
またチョキはパーに対しては最強ですが、グーにはどうしたって勝てない。要は使いどころなのです。
喧嘩慣れしていなければ喧嘩には勝てない。私が格闘技に憧れを持ちながらも、結局自身を鍛えることがなかったのもそのせいかもしれません。
八極拳をまさに最強の拳法とする論調には、最初こそ「おおッ、これこそ会得すべき技なのか」と引き込まれますが、その興奮がだんだんと別次元へと導かれ、人としての強さとは何か、なぜ拳法を修練するのか、もっと言えばなぜ人は生きるのかといった、思想哲学に突入してなんだかよくわからなくなるけど、殴ったり蹴ったりだけの乱暴で浅はかなレベルから「神を感じる」という崇高な次元まで拳法を学べる漫画は”拳児”をおいてほかにはありません。
なかなか奥が深いのです。
古い漫画ですが思い切って一気読みをしてみたところ、現代でも充分に通用する面白さであると再確認できました。
おすすめです。