タイトル:赤いカミナリ
男声1 30分程度
現代劇
人はなかなか見かけによらないものだ。
付き合いを持ってみると、見た目の印象とまるで逆の性格の人がいる。そればかりではない。付き合いはもっていてもその実、腹の中では何を考えているのかわからないのが人間だ。
タクシードライバーなんて仕事をしていることで、私は毎日とんでもなく多くの人に出会う。見たくもない人間模様もいくつも見せられた。本当に世の中には色々な人がいる。私は今までにたくさんの人を乗せて車を走らせた。驚いたのは、突然殴り合いの喧嘩を始めた夫婦とか、親から金を文字通りむしりとった学生とか。靴を履き忘れたまま車に乗ってしまったお爺さんもいた。他にも、本当は金もないのに豪勢に振舞う奴、男がいる時といない時では態度が変わる女、殺してやりたいほど腹の立つ上司におべんちゃらを使う中年サラリーマンなど。そういえば二股男の電話のやり取りは傑作だった。もっと変わったところでは、出産直前の妊婦さんや、ものすごく男にもてる美人の男性とか、大物俳優だとか、時には無賃乗車の客なんてものまで後ろに乗せて車を走らせてきた。
長いことやっていると不思議なことも起こるもので、私は同じ日に同じ客をまるで違う場所でひろって、客と互いに驚きあったことがあった。世の中には人間の頭ではわからない色々なことが起こるもので、信じられない話だがそんなことが本当にあったのだ。
中でも忘れられない客がいる。できればもう一度あってみたいのだが、その人と出会ったのはたった一度のそれっきりだ。ほんのひと時同じ時間をすごしただけだったが、私の心にはその存在が、暗い時にだけほのかに暖かいロウソクの灯かりのように静かに輝いている。
もう八年も前になるだろうか。その時私は酷く落ち込んでいた。突然、学生時代からの親友を事故で亡くし、人生について虚しさを覚え、何もかもに無気力になっていた。あまりにも近い人が死んでしまったので、この私もいつか死ぬのだなとリアルに感じた。親友のあまりにもあっけない死に、私は漠然とした恐怖とあせりを感じずにはいられなかった。しかし、私はそうしたことを何も考えないことでやり過ごそうとしていた。その時はまだ若さにも自信があったし、大きな病気にかかったこともなかった。妻や子供もいる。私にはやり残したことが山ほどあるのだ。しかし、突然そんなことが私の身に起きたら。私は何度も同じ事を繰り返し思い描いては頭を左右に振って、何も考えないことだと決め付けていた。
落ち込んでいた理由は実はもう一つあった。私は彼を救えなかったのだ。私は薄々彼が死んでしまうことを知っていた。しかし、まさか本人に「君の葬儀を出す夢を見た」とはいえなかったのだ。もちろん私だって半信半疑だった。いや、むしろ信じたくなかった。まさか本当にそんなことが起ころうとは。しかし実際、私は夢の中と現実の葬式でと、二度も悲しい思いをして涙を流したのだった。
その日の雨はやけにしつこさがあった。少し勢いが落ちてきたなと思うと、すぐに雷をともなった大雨になっている。もうすぐ夏だというのに、いつまでも梅雨時みたいな雨が降っていた。
夕方だった。ちょうど雨足が静かになってきて、厚い雨雲の向こうで西の空が微かに赤く染まっていた。私は次の客をひろいに、ある大学の前を通って大きな駅へ向かう途中だった。たまたま赤信号に引っかかり大学の前に車を止めると大学の正門から、いかにも学者然とした男が、私の車をめがけて手をあげて走ってくる。見ると傘もさしていない。確かに雨足は弱まったとはいえこれからまた降らぬとも限らない。よほど急いでいるのか、単にそそっかしいのかはわかりかねた。
扉を開けてやると、彼はすぐさまシートに滑り込み安堵の息を漏らした。車内に入ったので、男の融通のきかなそうな顔がはっきりと見てとれた。やはり学者なのだとすぐにそう思った。
私が振り返って行き先を促すと、考え事をしていたのか学者は驚いたように私の顔を見つめた。彼はしばらく私の顔をまじまじと見て、やっと何を聞かれたのかを知ったかのように何かに気がついて微笑むと、駅前にあるホテルの名を告げた。私は変なのをつかまえてしまったと少し自分の運のなさを呪って車を発進させた。
「ここんとこの雨は、ほんとにひどいですね」
そう、最初に話し掛けてきたのは以外にも学者のほうからだった。
「ええ、そうですね。朝から晩までひっきりなしですよ」
「調子はどうですか?雨降るとお客は増えますか」
にこやかな笑顔がルームミラー越しにのぞける。よくみるとネクタイをはずし、背広も脱いでくつろいでいるようだ。まるで顔見知りの家に訪ねてきたような態度に見える。
「ええ、今日なんかは休憩していても乗せてくれって言われるくらいです」
私は男の嬉しそうな笑顔とその似つかわしくない態度に目を見張りながら、やはりにこやかに答えた。すると向こうのほうでもこちらを伺っているらしくミラーの中で何度も目があった。男は私の顔を見ては何かを確かめるようにうなずいている。はて、過去にあったことのある人物であったかと、こちらが考え直すほどに親しげに私の顔を見てくるのだ。が、間違いなく初対面なのである。あまりにそのことが気にかかったので、前にお会いしたことがあったかと聞こうとしたとたん、学者の携帯電話が私の質問を引っ込めさせた。
学者は、「失礼」と断ってから電話に出た。とても几帳面で事務的な話し振りに聞こえる。どうやら、目的地に人を待たせているらしい。彼は腕時計を何度も確認して、しきりにうなずきながらあと四十分はかかるといった。
現在七時五分。私はタクシーの運転手だ。時間配分には自信がある。多少車の数は多いがこのペースならば、遅くても七時三十分、速ければ七時二十分に目的地に着くはずだ。どんなに遅くなっても七時四十五分になることはない。これは一言いってやろうと振り向くと学者は「いいんですよ」と首を振る。
「お急ぎでしたら飛ばしますよ」と言うと、
「それには及びません。それよりも雨ですから、ゆっくりと前を見て運転してくださいな」
となんの悪びれもなく言う。
変わった人だな。というのが正直な印象だった。
雨がひどくなってきた。遠くのほうで次々に雷がひらめいていた。そういえば私の親友が死んだ日もこんな雨の日だった。車に乗っていた彼は雨に濡れた路面にタイヤを取られて、交差点に飛び出したところを真横からトラックに衝突されたのだ。ひとたまりもない。
遠くに、また近くに落ちてくる雷。鋭く光っては地面を揺らすほどの音をたてている。私はその一瞬の紫を見ていて、ふと少年時代に見た嵐の光景を思い出した。
私は子供の頃、海の近くに住んでいた。友達との遊び場は海岸だ。そこでは波打ち際が子供達のグラウンドだった。ある日大きな嵐がその海岸にやって来た。水平線の向こうが無気味な色になっていたのを覚えている。私達家族は家にいては危険だと判断し、もっと街に近い親戚の家に非難していた。当時、海岸に建てられた木造の家は、嵐が来ると次の日には姿を消しているということが度々あった。私の家を含めその辺の家はそれほど粗末な家でもあった。その為、海に不穏な様子を感じ取ると近所中が軒並み異様な空気に見舞われた。しかし少年時代の私にはそんな嵐の恐ろしさなど微塵も感じることができなかった。私は親の隙を見て、親戚の家からこっそり抜け出し我が家に向かって走った。じっとはしていられなかったし、嵐をこの目で見てみたくもあった。しかし、私の予想を越えて嵐は凄まじかった。私が心細くなって親戚の家に帰ろうとしたとき、大波が我が家の玄関を洗い去った。私は短く叫んだ後、声を失ってたちすくんでいた。私はその時無数に落ちる雷を見た。一面が目を開けておれぬような雨と、波と、雷だった。そしてその雷の色が私の身体を痺れさせていた。荒れる海に落ちるのは赤いカミナリだった。ただの雷ならその当時の私でも何度も見たことがある。ところが赤いものなんて見たことがない。しかも幾筋も見える雷のことごとくが赤なのである。その光景は強烈なインパクトで私をひきつけた。私が赤いカミナリに魅せられて、大粒の雨が降りしきる中ただただつったっていると、脇から父親の大きなカミナリが落ちてきた。その場で張り倒された私は、父に抱えられて親戚の家にたどり着き、夜遅くまで散々絞られたのだった。
私は我に帰って学者を見た。私には前々から疑問に思っていたことがある。その時の赤いカミナリのことだ。私はその時、確かに赤いカミナリを見たのだが、誰もそのことを信じようとしない。その場にいた父でさえそんな色の雷があるものかとまるでとりあってくれないのだ。本当にそうなのだろうか。赤いカミナリ。あれは超常現象だったとでもいうのだろうか。それとも私は幻でも見たのだろうか。もう一度学者を見た。たまたま乗せているのはこの男だ。もしかしたら私の疑問に答えてくれるかもしれない。私は試みにこう聞いてみることした。
「お客さんは学者さんですよね。学者さんは超常現象とか信じますか」
突然の質問に男は若干たじろいだみたいだったが、すぐににこやかな顔に戻り、
「超常現象ですか。ま、分野にもよりますけど。私は自然科学を学んでいますので、あまりに突拍子もないものは信用しませんね。信じたいとは思いますけど」
と答えた。
「そうですか。一つ聞きたいことがあるのですが、よろしければ教えていただけませんか」
「ええ、いいですよ。僕に答えられることなら」
学者がそう言ってしきりにうなずいているので、私は少年時代の思い出を彼に話して聞かせた。
「その時の光景は今でもわすれられないのです。あんなに厳しい表情の海を見たのもあの時が初めてでしたし、なんといっても赤いカミナリが次々に落ちるのをこの目ではっきりみてしまったのですから」
学者を見ると真剣に話を聞いている。
「なのに誰も信用してくれない。そんなものはないと言うのです。では私の見たカミナリはなんだったのでしょうか。本当に赤いカミナリなんてないのでしょうか」
私が話し終わると学者はしばらく低い声でうなったあと、
「そうですか。そんなことがありましたか」
と、どちらでもないような返事をした。
こころなしか雨がさらに激しさを増してきたようだった。学者の声が聞き取りづらい。
「確かに普通、雷は赤いものではありませんし、赤く見えることもありません。が、世の中には人間の頭ではわからない色々なことが起こるものですから。あなたの言うように赤いカミナリが落ちることもあるのでしょう」
彼はそれが癖であるらしく、しきりに何度もうなずきながら、ゆっくりとそう言った。私は学者の意外な言葉に「そうですか」としか言えなかった。この先生は本当に大学で自然科学だかなんだかを学生に教えている人なのだろうか。私は不信気に彼を見た。見た目はやはり堅物の学者そのものだ。
「やっぱり何かそういう、科学では計り知れないことも時にはあるものなんですか」
「あるのではないかと信じています」
男はなぜか暖かい微笑みを浮かべていた。まるで彼の前であればどのような非科学的なものも、真実として受け入れられるかのようだった。それはたんに彼の優しさによるものかもしれない。しかし、私はその優しい笑顔を見て、なんだか自分の悩みをこの男に聞いてもらいたい気持ちになってきた。何かそういった、人を安心させるようなところがこの男にはあった。本当に始めてあった人には思えなくなってきたのだ。今思えば、私の精神状態は非常に危ういバランスにあったのかもしれない。
私は思い切って口を開いた。
「あのう、もう一つ聞いてもらっていいですか」
「ええ、けっこうですよ」
と学者はうなずいている。
「私には今、悩み事があるのです」
「それは、どのような」
「実は先日、大学時代の親友を亡くしてしまいました。とても優しい、思いやりのある、いい奴でした」
学者を見ると、どうぞと黙って聞いている。
「こういうのを超常現象と言うかどうかは知りませんが、デジャビュ、って知っていますか。既視感とも言うそうですが、どういう理由か昔からよくあるのです、そういう感覚が。やけにはっきりとした記憶で夢を見て、その時のことをしっかりと覚えているのです。恐ろしいほどに。そしてそれが現実になる。これは信じられますか。こんなこともあるのでしょうか。それを予知夢だなんていい方をすれば人もうらやむような能力だと思われますが、とんでもない。私はある日、親友の葬式の夢を見ました。すごく悲しかった。目が覚めて私は泣いていました。そして程なく現実の葬式で、私はまた泣いていたのです。ああ、本当にあいつの葬式をだすなんて。私はもうこんなのは嫌なんです。私だけ、こんな、二度も悲しい思いをしなければならないなんて。しかも、私にはどうやったって現実を変えることなんかできないのです。そんなことなら、知らないほうがよかった。そう思うんです。いや、ごめんなさい。信じてもらえないでいいです。つい興奮してしまって。いいんです。私の思い違いなんですから」
黙ってしまった学者の暗い顔を見て、やはりこんな話しなければよかったと思い、悲しさと後悔を紛らわすのに、息苦しい沈黙をわざとらしい咳払いで埋めてみた。ウインカーを右に出す。車内の静けさはしばらくその時計のような音に支配される。
交差点を右に折れると細い道に入った。少し進むと雨粒のフロントガラスの向こうに赤いテールランプが延々と並び、車は少しも前に進まなくなった。遠くのほうからクラクションの音が幾つも聞こえてくる。
私は思わず左手を額に当てて、まいったなぁと思った。これはおそらく事故だろう。雨の日に細い道で事故でも起きればイライラが募るのは人情だ。無論私が悪いわけではないが、とばっちりでどやしつけられることも少なくない。見た目ほどは気難しい人ではないのだろうが何も言わないわけにはいかない。できるだけ申し訳なさそうな声を出す。
「お客さん、どうも事故みたいですね」
見ると、男はそのことに今気づいたのかように前方を見つめ「ええ、そうですね」と微笑んだ。
「動きそうにないので、少し道を変えますがいいですか」
と聞くと、
「ええ、けっこうです。少し遠回りするのでしょう。いいですよ」
と丁寧に答え、むしろこちらのことを気遣うようにしてくれている。とても人を待たせている人間の態度とは思えない。学者にまでなると、こういった人間の幅というか余裕ができてくるものなのだろうか。
私はさらにわき道を抜け大回りをして先の大通りに戻った。
そこで不意に彼が口を開いた。
「信じますよ。その話」
驚いてブレーキを踏みそうになる。
「ええ、信じます。そんなこともあるでしょう」
などとうなずいている。
最初は何の事を言っているのか気がつかなかったが、彼のほうから話題を戻してきたのだとわかった。
「実は、僕もよく見るんですよ。そういう夢を。家系なんですかね。僕の家族はみんなそんな感じです」
私は真面目腐った顔をしてそんなことを言い出した男に憤りを覚えた。馬鹿にしている。すぐにそう思ったのだ。
「ご冗談を」
すると私の微妙に感情を含めた語気に気がついたのか、驚いたように、
「本当です。嘘じゃありません」
と、訴えた。
「本当なんです。だからあなたの気持ちはよくわかる。僕はある日大きな地震の夢を見ました。そして、それは神戸にいる親戚の家がなくなってしまう夢でした。僕が慌てて彼らを東京に呼び出してみたら、翌朝とんでもない都市直下型の大地震が近畿地方を襲いました。親戚の家族は驚いてすぐに神戸に帰りましたが、彼らの住んでいた所は大規模な火災に巻き込まれた後でもうすでに住む家はなくなっていました。本当なんです。私が余計なことをしなければ、もしかしたら彼らは家を失わなかったかもしれない。しかしこれが現実です。もっと身近な話もあります。僕の息子は大学も中退して仕事もせずに遊びほうけています。でも僕達は彼に何も言いません。あいつは若いうちに大きな病気で死んでしまう。そのことを知っているので、家族はみんな目をつむって息子の好きなようにさせているんです。かわいそうなやつです。本人もきっとそれを知っていてそうしているのだと僕は思うんです」
男は淡々と語った。
その表情や口ぶりを見ていると、とても今考えた作り話だとは思えない。それでもにわかには信じがたい話だ。まさか、そんな事が世の中に起こりうると言うのだろうか。なんだか、彼が学者であるということでさえも疑いを持ってしまう。
赤いカミナリ、あれが現実であったように彼が言うことにも嘘はないと言うことだろうか。私は騙されている、そんな気がするほど男は饒舌に夢と現実の符合について語るのである。
そしてまた、
「世の中には、人間の頭ではわからない色々なことがおこるものですから」
と繰り返した。
雨足は次第に弱くなり、雷もたまに山の向こうでくすぶっているのみになった。黒い雲の隙間から漏れてくる光に、目的地のホテルが遠くかすんで見えてくる。
「別に悪いことばかりでもないんですよ、正夢を見ることは。まぁ、とにかく暗く考えないことです」
と彼は明るく言った。風が吹き始めたのか、長い雨を降らせていた雨雲は散って、私達の視界も明るくなってきた。
「確かに現実を変えることはできないかもしれない。いくら先を知っていても悲しい思いを二度することもあるでしょう。でもいいこともあるじゃないですか。たとえそれがどんなことでも、人より先に心の準備ができるんですから、人より余裕を持って生きることができるんです」
男はやけに説得力のある口調で語った。
「人が、うらやむような力を持った人には、やはりその他の人にはわからない悩みがあって当然です。何かを得るときには代償が必要です。お金だって、権力だって、名声だって、全部そういうことだと僕は思うのですよ。他人から一見幸せそうに見られることが、実は当人にしてみれば悩みの種でしたなんて、よく聞く話です。だから、だからこそ僕は、この先を見る力を、先を見てしまう悩みを、自分の中で完結させないで、人のために利用したいと思うのです。でないと、どう考えても損でしょう」
と、いたずらっ子のように笑う。
車はもうホテルの前に着いていた。二千六百八十円だというと、彼は千円札を三枚出して、時間通りに着いたのでお釣りはとっておいて下さいと言った。そして、車を降るその時になってまたじっと私の顔を見た。じっと私の顔を見て、
「実はね、僕こうして今日あなたと車の中でお話する夢も見ていたんですよ」
と言って嬉しそうに笑った。
時計はちょうど七時四十五分だったが、五十分になるまで私は車を出せないでいた。