声劇 2人

なでしこ(男1女1:45分)

タイトル:なでしこ

男声1 女声1 45分

現代劇 恋愛

 

女 「愛なんかなくたってエッチが必要なときってあるんだよね」

男 さっきまで無邪気に気持ちよさそうな表情で踊っていた翔子が妙に大人っぽいことを口にしたので、最初はどうして急にそんなことを言い出したのか意味がわからなかった。

女 ノド渇イター

男 と片言のような日本語を叫びながらホールからカウンターの僕をめがけて走ってきて隣の席に飛び乗り、彼女のために頼んであげたカシスオレンジを少し薄目になりながらグイと傾け、おもむろに僕の内腿に手を置いてはっきり言ったわりにはツヤっぽさが少しもなかったので、まさか自分が誘われているとは思わなかったのだ。それはまるで、

女 べつにお腹すいてない時でも目の前になんか出されると食べちゃうんだよね、

男 と言われたみたいに日常的で当たり前のことを言われたような気がして、僕は同意するのも馬鹿らしいとばかりに鼻で笑いつつ、モスコミュールを口に運んだ。

男「ガキのくせに、なに言ってんだか。どうせ誰かの受け売りなんでしょ」

女「違うって、私のオリジナルのほら、あれ、殺しモンクってやつ。あはは」

男 笑いながら殺し文句もないもんだと思いながら、翔子はいつもこうやってそこらへんの男をナンパしているのだろうと考えた。今日はなんとなく、この僕に声をかけてみたのかもしれない。

男「もしかして、誘ってくれてんの?」

女「そだよ。今日泊まるトコないんだ。一晩、いいでしょ?」

男 満面の笑みを見せた翔子に、しかたないからと口ではいいながらも、うなずいた時にはうかつにも笑顔になってしまった。

女「やったー。じゃ、またね」

男 翔子はもう一口でカクテルグラスを空にすると、飛び跳ねながらホールの喧騒の中に消えてしまった。思わずため息が出る。自分のため息も聞こえないほどの大音量の洪水の中で、人生の苦い部分をすべて忘れて踊り狂う大勢の人たちを眺めているのは、とにかく無性につまらなかった。僕は翔子の姿を探しては、ため息をついた。それでいて沈んだ気持ちとは裏腹に、翔子の肉体への誘惑が心を乱していた。華奢な体で踊り狂う翔子の腰つきはそれほど魅惑的だった。

男 大学に入って同じクラスの女の子の中に、中学校の頃の後輩だった翔子がいることに気づいたのは前期も終わりかけの7月に入ってからだった。夜明け前から大雨が降って午前中の授業が休講になり、かといってすることもないからと教室で本を読んでいた。すると突然、びしょ濡れの女の子が何事かをわめきながら教室に転がり込んできた。教室には僕以外にいなかったばかりか電気も消されていて、辺りを見回してさすがにその女の子も授業が休講になったことに気がついたようだった。頭からは雨を滴らせているし、着ている白いシャツは透けて中の下着の色が遠目にもはっきりとわかったし、赤いチェックのスカートも黒の靴下もスニーカーも泥だらけだった。

女「もお、なんなのよ一体。最低」

男 彼女はそう言いながらおもむろにシャツを脱ぎだし、教室に入り口で堂々と上半身だけ下着姿になったかと思うと、服を絞ってびしゃびしゃと雨を床にぶちまけていた。あっけにとられてその様子を見ていると女の子は突然顔を上げて、

女「なに見てんのよ」

男 と怒鳴った。一瞬目が合って急いで顔を背けたが、こっそりもう一度そっちを見ると、彼女は不思議そうにずっとこちらを見ている。まだ濡れたままのシャツを羽織り、ボタンをかけながら近づいて来るので、僕は怖くなって思わず立ち上がり後ずさった。にらみつけるような顔をしていた彼女は、あと3メートルというところまで近づくと急にパッと表情を明るくしてこう言った。

女「あら、やっぱり沢田先輩、だよね?ほら、私ですよ。美術部で一緒だった」

男「もしかして、矢島翔子」

女「そう、わかんなかった?」

男「わかんないよ。なんか全然雰囲気違うじゃない」

男 僕は、もう一度彼女の姿をじっくりと見た。わずかに面影があるようだが、当時の矢島翔子はメガネをかけていたし、ましてや人前でいきなり服を脱ぐような性格の人間ではなかった。翔子は僕があまりにじろじろと見るので、

女「もう、あんまり見ないで」

男 とさっきまでのは「なし」とばかりに急に恥ずかしがった。

男「って言うか、なにしてんの?びしょ濡れじゃん」

女「そうなのよ、ちょっと聞いてよ。あたし、今ダンスサークルに入ってんだけど、サークルの部屋に泊まっちゃって、気がついたら朝だし授業始まってる時間だし大雨降ってるし、超最低。休講にするんならするって言っとけって感じ」

男 翔子は大きなくしゃみを空中にぶちまけて、鼻をすすった。僕はポケットからティッシュを出して渡すと、何も言わずに受け取って必死に鼻をかんでいた。

女「ってかさぁ、先輩ってうちの大学にいたんだね。でも、この講義が一緒ってことは、もしかして同期?」

男 翔子が言うように、僕はある別の大学に入るために一年浪人したあげく、去年も合格した滑り止めにもう一度拾われて情けなくも妥協して入学してしまったのだ。中学の頃に一つ下の後輩だった翔子が今は同級生。惨めさの追い討ちだった。僕が一瞬にして表情を暗くしたのに気がついたのか、翔子は

女「あれ、痛いトコついちゃったのか。すいません」

男 と笑顔であやまった。

男「そのままじゃ風邪引くよ」

女「とは言ってもね。あ、そうだ先輩の家、近所?私、今日の必修はこれだけだから、服乾かしに行ってもいいでしょ?」

男「お前の家はどこ」

女「私、実家に住んでて、ウチから通ってるんです。2時間。で、馬鹿らしいから友達んち転がり込んだりサークルの部屋に泊まっちゃったり。今、ちょっと頼れるトコないですよお」

男 翔子は急に変な敬語を使って上目遣いをする。

男「いや、まぁ家はすぐそこだし、一人暮らしだからなんてことないけど、俺昼も講義あるんだけど」

女「え、何の講義?それそんなに大事なやつなの?出席うるさくないやつならいいんじゃない、ね?」

男「ううん、とは言ってもさあ」

男 僕はある程度抵抗しては見たものの、結局翔子は強引に部屋にあがり込んだ上に、

女「なに見てんのよ」

男 とわめいて逆に僕を部屋から追い出してしまった。鍵を預けるわけにもいかず、講義にも出れない。大雨が降っているのに部屋にも入れず、文句を言うと怒鳴られる。僕はそれでも、なんだか懐かしくて嬉しくて変な気持ちで玄関に座り込んでいた。あの矢島翔子にもう一度会えた。浪人してつらい目にも会ったが、この大学で翔子と再会できたのなら、それはそれで意味があったことのように思えてくる。

男 中学生の頃の翔子は、可憐で大人しくて、繊細なタッチで水彩画を描く、なにかにつけて控えめな少女だった。部室に初めて訪れた翔子は、僕の絵をまじまじと見て、真剣に僕の解説を聞いていた。まるで僕の言う言葉が絶対の教えであるかのように、目を見開いて聞き入ってくれていた。入部してからも、翔子はなにかと言えば僕に質問した。僕はそんな彼女に強い口調で命令し、翔子は僕の命令を喜々として受け入れた。たとえ僕が間違った指導をしても、彼女は僕に逆らわなかった。

男 僕は絵が下手だった。お世辞にも誰も僕を褒めなかった。唯一、翔子だけは僕の絵を好きだと言った。それが本心だとは微塵も思わなかったが、「先輩」という絶対的な力がそれを言わせていると思うと、それはそれで満足だった。その点、彼女の絵は、入部当初から見事だった。僕は一目見て翔子の絵の繊細なタッチに惚れた。それはまるで、絵本に出てくるような淡い色使いの優しい絵だった。学年を越えたレベルだったと、ほとんどの部員が褒めた。

男 それなのに、翔子は僕のことを「先輩」と崇めた。僕は僕で、そんな翔子が気になってしかたなかった。彼女の弱さというか、言葉を強めに言えば、どんなことでも従ってしまいそうな危うさが、妙に男心をくすぐった。当時の僕は、なんとか翔子に「良い先輩」と思われたいと腐心していた。それは恋心とはちょっと違うエゴイズムで、無理強いして従わせることもできる相手に対し、あえて向こうから服従してくるように仕向けたいといういびつな支配欲だった。

男 僕は何かにつけて翔子をかまってあげ、翔子は素直に僕の言うことをよく聞いた。いつでもモノにできる自信があったから、その自信だけで満足だった。だから僕は翔子をほしいままにはせずにいたのだと思う。でも、やっぱりそれは恋ではなかったから、告白することもされることもなく、二人は良い先輩と後輩のまま、僕は中学を卒業した。

男 あの翔子が、背が低くて、華奢で、可憐なおもむきはそのままに、大人の女となって再び僕の目の前に現れた。今度は、今度こそは、僕は矢島翔子をわがものにするに違いない。ダンスホールで踊り狂う翔子を遠目に見ながら、僕は彼女の裸を想像していた。今日は、翔子を抱く。その思いだけが、今の本心で、彼女を好きかどうかは問題ではなかった。

女 「ねぇ、沢田先輩って、私のこと好きだったでしょ」

男 事が終わった心地よいまどろみの中で、不意に翔子が言った。翔子の夜のテクニックは「尽くす」それだった。これまで抱いたどの女よりも翔子は優しくて、そして情熱的だった。

女「正直にいいなさいよね」

男 翔子は僕の敏感になっている部分を乱暴につかみならがら、

女「どうなの?」

男 と詰め寄ってきた。好きかと問われれば、好きだったに違いないが、それは一人の女性として慕っていたわけではなく、自分の支配欲を満たしてくれる対象として好きだったので、そうとは答えられず、僕は黙ってしまった。

女「ほかの先輩たちもみんな沢田さんが私のことお気に入りだって言ってたんだけどなあ。だから私もてっきり沢田先輩が私のこと好きなのかと思ってた」

男 翔子はつかんだ局部に顔を寄せるとそのまま口にくわえて、優しくなめてくれた。

女「こうすると喜んでくれるんだよ、みんな。どう、嬉しいでしょ」

男 僕は翔子の丁寧な愛撫に心を奪われて、急に彼女の事が愛おしくなってしまった。そして翔子が「みんな」という言葉を使ったことに、言いようのない嫉妬心が沸いてくるのを感じた。

男「そんな風に思われてたなんて意外だな」

女「なにが?」

男「いや、だから、俺がお前を好きだなんて」

女「そうだよ。でも私はほかに好きな人がいたから」

男「そう、だったんだ」

男 隠そうと思ったがショックが顔に出てしまった。

女「あれ、やっぱりショックだった?私が沢田先輩のこと好きじゃなくて」

男 翔子がニコニコしながら痛いところを突いてくるので、僕はふてくされたように黙るしかなかった。

女「でも沢田先輩はいいところあったし、嫌いじゃなかったよ。なんか私に尽くしてくれる人って意味でだけど」

男「俺は別に尽くしてねぇよ。お前に良い人って思われたかっただけだよ」

女「そうなんだ。でもなんで?それって下心ってやつでしょ。私とエッチなことしたかったんじゃないの。断れないと思った?」

男「そんなんじゃないよ。けど、お前のことかまってやらないと、誰かにとられちゃいそうで」

男 言ってからしまったと思った。恥ずかしくて一瞬で顔に血が集まったような気がする。

女「とられるって。あはは。先輩のものじゃないのに?」

男 そのとおりだ。翔子は自分のものじゃない。今も昔も。

女「私って、よく誤解されるんですよね。沢田先輩みたいに私を守りたいって思う人って、結局私のことを一番なめてる人なんですよ。だから、私も猫かぶるのやめて、なめられない人間になろうって思ったんです。そもそも、大人しくしてればなんでも言うことを聞くって思われること自体、どうかと思うわけ。そう思わない?」

男 翔子はその語気の強さとは裏腹に、さわり心地のよい肌を密着させ、僕にキスをした。彼女のかわいさに僕の劣情はどろどろと胸に広がり、僕はまた元気になっていた。

女「あ、また元気になったのね。やっぱり私のこと好きってことか」

男 どこまでも翔子は僕を子ども扱いして

女「よしよし」

男 と言いながら頭をそっとなでてきた。

男「昔好きだったんじゃない。今好きなだけだ」

男 それが精一杯の強がりだった。僕はそのまま翔子を組み伏して、彼女のことをむさぼった。翔子はやはり、優しく、献身的に僕を再び受け入れた。

男 翔子はそれから頻繁に僕の家に泊まるようになった。そしてそのたびに僕は翔子を複数回抱いた。ひどいときは朝まで彼女を寝かさなかった。それでも翔子は文句一つ言わず、僕の言いなりになった。それどころか、僕が翔子に手を出さずに寝ようとすると、

女「もう私のこと嫌いになったの?」

男 と言って強引にキスを迫り、僕はあっという間に脱がされて、なし崩し的に事に至った。彼女は、僕が果てたのを確認すると、安心して眠りに就いた。それは上半身で処理することもあれば、手先で済ませることもあったが、とにかく僕が全てをはき出すまでは、決して終わらなかった。

男 翔子は果たして僕のことをどう思っているのか、僕にはちっともわからなかった。しかし、そんな僕の気持ちをよそに、翔子の心のありどころは羽のようにフワフワとつかみどころがなかった。裸で絡み合いながら

女「ねぇ、私のことどれくらい好き?どこが好き?」

男 と何度も聞いてきたかと思えば、事が終わった途端に

女「私は沢田さんのこと好きじゃないよ」

男 と笑顔で言ったりした。

男 8月になって、急に翔子から

女「どこか遊びに行かない?」

男 と聞かれた。1週間連絡をよこさなかった翔子が、久しぶりに泊まりに来た翌朝のことだった。大学は夏休みに入っていて、することと言えば居酒屋のバイトぐらいだったので、1日遊びに行くぐらいなんてことはなかったが、そう言えば翔子と日中にでかけたことがなかったことに気付いて、どういう風のふきまわしだろうかと考えを巡らした。その一瞬の逡巡を断りと捉えてか、翔子は

女「無理なのか。じゃあいいや」

男 とすぐに提案を取り下げた。僕は慌てて、「無理じゃないよ。どこに連れて行こうか考えちゃっただけだよ」と取り繕った。

女「どこ行くかは私に決めさせてよね」

男 翔子は少女のように頬を膨らませた。

男「わかったわかった。どこでも好きなとこ言ってよ。2日でも3日でも休みをとるからさ」

女「本当に?」

男 翔子は今度は目を輝かせて満面の笑みを浮かべた。

男 二人きりの旅はその日、唐突に始まった。

女「じゃあ、今から行こうよ」

男 と言い出した翔子は、なんの混じり気もなく本気だった。

女「沖縄行ったことある?」

男 と真顔で言い出した時は、さすがに「行ったことないけど、そんなにお金もないぞ」と釘を刺した。

女「とりあえず、電車に乗ろう。海が見えるまで」

男「そうだな。飛行機は勘弁してくれ。電車がいい」

男 翔子は

女「それじゃあ、準備してくるね。駅で会おう」

男 と言って実家に帰っていった。

男 僕はバイト先に連絡を入れ、身支度をするとありったけのお金を持って駅に向かった。翔子は何日分かわからないほど大きな荷物を持って、僕よりも先に駅にいた。

女「家出してきちゃった」

男 翔子は笑顔で舌を出したが、単なる冗談とも思えなかった。

男「一体どこまで行く気だよ」

男 僕があきれてみせると、

女「どこまで連れてってくれるのかしら」

男 とむしろ挑発的な態度をとった。

男 僕は適当に切符を買って、海が見える方向へ、電車を選んだ。翔子はずっとニコニコしていて、僕が選ぶ電車に疑うことなく乗った。

女「ねえ、楽しいよね」

男 時折、確認するように僕の耳にそっと打ち明ける以外、翔子はほとんど口をきかず、車窓を見ていた。正直なところ、僕も楽しかった。大げさかもしれないけど、僕が選んだ道に翔子が黙ってついてきてくれることで、僕は満足していた。

男 山の中を走っていた電車がトンネルに入った後、突然車窓に大きく海が開けた。

女「海だ」

男 翔子は車窓にかぶりついて小声で言った。それから翔子は何度も

女「海だ、海だ」

男 と小声で繰り返して、ふと僕の目を見た。その目は、まるで中学生の時の翔子のように、純粋で透明で、光に満ちていた。

男「やったね。海まで来たね」

男 僕が翔子の耳元で囁くと、彼女は子供のようにうん、うん、と大きく頷いた。

男 電車はさらに海側へと進路をとって、やがて海沿いの駅に僕らを運んだ。僕は、さも当たり前のように「降りようか」と翔子の手をとった。翔子はまた、うん、うん、と大きく頷いて僕の後ろを歩いた。何度も夜を重ねた二人だったが、こうして陽の当たるところで手をつなぐことは、とても恥ずかしいことのような気がした。でもその恥ずかしさが、逆に心地よく、僕は見せびらかすような気持ちで翔子の手をしっかりと握り締めた。

男 改札をでると、ビーチにつながる道を大勢の人が足早に歩いていた。ビーチまではすぐそこだったが、僕はあいにく水着を用意していなかった。そして、それは翔子も同じだった。僕たちは手を握りあったまま、ビーチを通り越してあてどなく歩き続けた。

女「海の絵が好きだったんですよ」

男 翔子が海を見ながら言った。僕には意味がわからなかった。

女「沢田さんの絵。覚えてないの?」

男「俺の絵って、中学の頃の?」

女「そう。私が美術部に見学に行った時に先輩が描いてた絵」

男「ああ、あれか」

男 そうは言ってみたが、何も思い当たらなかった。

女「海って、入るとなんか肌触りも嫌だし、しょっぱいし、クラゲがいたりして、私あんまり好きじゃなかった。でもあの絵を見たときに、初めて海っていいなって思ったの」

男 翔子が言っている絵は、もしかしたら、僕が中学1年の時にコンクール用に書いた油絵のことかもしれない。それをさも書きかけのようにイーゼルにかけて、手直しするふりをしていたのだ。しかし、そのモチーフが海だったかどうかは判然としなかった。絵の中の一部に海が入っていたかもしれなかったが、正直それほど海の絵に思い入れがなかった。

女「その絵見て、入部しようと思ったんだよ。知ってた?」

男「いや、初耳だね」

女「先輩、かっこよかった。あんな絵が描けるなんて」

男「あの時教えてくれてれば、今でも絵を描いてたかもね」

女「なんでやめちゃったんですか?」

男 なんで、やめたのか。いや、そもそもなんで絵を描いていたのか。そっちの方が大事な気がしたが、今ではもうわからなかった。子供の頃に好きだったことが、この年になっても好きであるとは限らない。僕は、確かに絵を描くことが好きだった。でも、今はそれほど好きじゃない。

男「褒めてくれる人がいなかったからじゃないかな」

女「ああ、それわかる」

男 適当にお茶を濁したつもりだったのに、翔子はやけに共感を示した。

女「私の絵が好きだって、言ってくれる人、いなかったから」

男 翔子は寂しそうに言った。

男「それで絵をやめたの?」

男 翔子は僕の質問が聞こえなかったみたいに、しばらく口をつぐんだ。やがて、

女「本当はやめてないんだ。心のどこかでは。でも体はとっくにやめちゃった。もうだから描けないね。きっと」

男 と言った。

男「また描いてみれば?意外とダンスより面白いかもよ」

男 僕は笑顔で言ってみたが、翔子は急に顔を曇らせた。

女「ダンスはもうやめた」

男「なんで?」

女「サークルの先輩と別れたんだ」

男 翔子の言葉は一瞬で僕の胸をかき乱した。自然と歩みは止まって、返って呼吸は荒くなった。今まで、胸につかえてたものが、今にも喉から溢れ出そうだった。

男「もしかして、それで、だったの?」

女 つないでいた手を離して、僕は翔子と向き合った。語気を荒げないように注意をしたが、すこし語尾が強く出てしまった。

男「今日は、それで、俺と?」

男 言い終わらないうちに、ため息が出た。彼女の口から別の男の話を聞くのは、正確には初めてだった。翔子の言動の端々から想像することは何度もあったが、直接そのことについて耳にしたことはなかったのだ。

女「ねえ、こんな私と付き合える?」

男「どういう意味だよ」

女「お前みたいな浮気者は嫌いだって。そう言われたの」

男「だから、何?」

女「沢田さんは、そんな私と付き合える?私と付き合ってくれる?」

男 翔子は涙を流していた。

男「俺は、お前の何番手だったんだろうな」

男 言いたくない言葉が勝手に口をついた。泣いている翔子に何を言うつもりなのか、自分でもわからなかった。

女「なによそれ」

男「さんざん俺に気を持たせといて、振られたから俺のとこに来てんだろうけど。さて俺は何番目なんだと思ってさ」

女「そんなつもりじゃないよ」

男「そんなつもりじゃなくたって。それじゃあんまり俺がかわいそうじゃない」

男 今度は僕の頬を涙が伝った。

男「俺は、お前が好きだよ。きっと。ずっと。でもさ、その気持ちを軽く見られるのはつらいんだよ」

女「ごめんね。やっぱり私はダメだね」

男 翔子は駅に向かって踵を返すと、ふらふらと歩き始めた。僕はしかたなく、翔子に追いすがった。

男「待てよ」

女「ごめんね」

男「待てったら」

男 僕は翔子の肩を掴んで、そのまま抱きしめた。

男「だから、好きだって言ってるじゃんか。俺はお前が好きなんだって」

男 翔子は僕の胸で

女「ごめんね。ごめんね」

男 と繰り返して泣いた。

男 日が沈み始めたので、近くの民宿に空きはないかと訪ねて3軒目、二人は中でも一番古めかしい宿で泊まることにした。狭い風呂に交代で入って、僕は持ってきたパジャマに、翔子は宿の浴衣に着替えた。小柄な翔子に大きめの浴衣が不釣り合いで、見るからにぎこちなかったが、風呂上がりのその姿はどこか淫靡だった。

男「翔子は、俺の彼女でいいんだよね」

女「沢田さんは私の彼氏でいいんだよね」

男 消灯してすぐに、僕らはお互いの体を愛撫しつつ、そんなことを確認し合った。翔子はまるで、二人で迎える最初の夜かのように、なにかと恥ずかしがった。僕は普段したことのないような命令に恥ずかしがる翔子を従わせ、征服感を満足させた。

男 また翔子のありとあらゆる場所に舌を這わせることで、余計に彼女が恥ずかしがるのを堪能した。翔子はいつも以上に感度を増して、時に大声を上げた。布団は二人の汗と分泌液を吸って、ところどころに大小の水玉模様を作った。

男 僕は、本当に二人が一つに繋がったのは、今日が初めてだったのだと実感していた。翔子は受身に徹して、僕の欲望のすべてを抱きかかえるように接してくれた。それがきっと本来の彼女の夜のあり方なのだと確信した。僕は最後の瞬間、死すら怖くないと感じながら、彼女にすべてを投げ出して、果てた。翔子は、やり遂げた僕を優しく抱いて、頭を撫でてくれた。今までに感じたことのない充足感が僕の全身を満たしていた。

男「なあ、一つだけ約束してくれないか」

男 僕はすっかり眠くなっていたが、最後の力を振り絞って翔子に問うた。

女「なあに?」

男 翔子も半分は眠りそうだった。

男「寝るのは、俺とだけにして欲しい」

男 翔子は、

女 「うふふ」

男 と声に出して笑った。

男「難しいかい」

男 僕はちょっと、緊張して聞いた。

女「そうじゃないの。私、そんなに尻軽女だと思われてたのかと思って」

男「だって、そうじゃないの?」

女「ひどい。ちょっと傷つくな」

男 翔子は本当に傷ついたみたいだった。

男「ほら、俺が最初にクラブに連れて行かれた時だって、翔子から誘ってきたじゃない」

男 彼女はまた、

女 「うふふ」

男 と笑った。

女「あれは、本当に、私の告白だったんだよ。わかんなかった」

男「そうかな。だって、誰とでも寝るみたいな言い方だったじゃん」

女「だって、恥ずかしかったんだもの。昔の憧れの先輩に好きって言うの」

男「なんだそれ。それから頻繁にうちに泊まったり、泊まらなかったりしてたのはどういうこと」

女「だから、それはサークルの先輩と付き合ってたから。でも浮気ってことでバレちゃって。その彼が、沢田先輩のことぶちのめすってわめいてたのを黙らせて、なんとか別れたんだよ」

男「そうだったの?なんか、よくわかんなくなってきたよ」

女「だってさあ。昔の憧れの先輩だからって、会った途端に好きですって言ったり、彼氏とすぐに別れて、付き合ってください、っとかって、なんか馬鹿っぽくない?」

男「いや確かに、そうかもだけど」

女「そうすると、沢田さんにずっとなめられ続けるような気がして。私、人から馬鹿にされるの嫌なの。やっぱり対等に付き合いたいじゃない」

男「まあ、俺はどこかで翔子のことをいつでもものにできると、なめてかかってたのかもしれないし、その通りに翔子のことをものにできたら、なおのことそうだっただろうね」

女「でしょ?それが嫌だったから。私を好きになるってことを本気で考えて欲しかった」

男「でも、逆はどうだろう。俺を好きになるってこと、本気で考えてくれてた?」

男 翔子は僕をゆるく抱きしめると、ふいに唇を重ねた。

女「どう思う?」

男 翔子は余裕たっぷりで聞いてきた。

男 答えは、きっとイエスだろう。

男 翌朝、二人は手をつないで、電車に乗って、僕の家に向かった。翔子の抱えていた荷物はすべて僕の部屋に収めて、同棲が始まることになった。翔子の「家出」はやはり冗談ではなく、そのまま僕の部屋に住むことを想定していたものだった。

男 僕たちは、狭い部屋で絵を描くことにした。翔子は水彩画を、僕は油絵を。

男 最初は「海」を描こう。それだけ決めた。僕の絵は、到底大学生の絵とは言えないものだったが、翔子は真剣に褒めてくれた。翔子の水彩画は本当に美しかった。中学卒業以来、今まで絵を描いてこなかったというのが信じられなかった。

男 ひとしきり「海」を描き終えた僕たちは、自然にお互いの絵を描き始めた。僕の絵は、やっぱりダメだった。翔子の、特に目を象徴的に描きたかったのに、それが顔立ち全体のバランスを崩してしまい、ちぐはぐな印象を与えた。これも翔子は本気で褒めてくれたが、さすがに浮かれた気分にはならなかった。

男 翔子の「僕」の絵は、不思議な絵だった。僕の顔は、への字口に八の字眉で、目はメソメソと涙を流していた。バックは海だった。

男「これ、なんでこんな顔なの」と聞くと、

女「この顔が一番好き」

男 と翔子は笑顔で答えた。

タグ

-声劇 2人
-, ,

© 2024 アトリエゴリアス